八日市飛行場

東近江市埋蔵文化財センター

2016年07月22日 09:00

旧陸軍八日市飛行場跡についてご紹介します。

 八日市飛行場は、東近江市の沖野ヶ原と呼ばれる一帯に、大正4年頃に国内初の民間飛行場として設立されました。その後、運用の面から陸軍誘致に乗り出し、大正11年頃に国内3番目の陸軍飛行場となり、先の戦争まで使用されました。

 飛行場ができた理由として、沖野ヶ原は1万年以上前の愛知川の氾濫原で水はけがよく、地形が平らで、風を受けやすく、江戸時代から大凧まつりが行われるような場所であることが挙げられます。また、国内で飛行機が入ってきたばかりの頃で、先鞭をつけようと地域の人々が私財を投じて誘致運動を起こして成功しました。現代につながる、新たなまちづくりがはじまったのです。
 
 飛行場を中心として、軍関係施設が作られ、湖南鉄道(→八日市鉄道→近江鉄道)飛行場線が敷かれます。また、現在の東近江総合医療センターは、元は陸軍病院でした。現在の工場や道路は飛行場の施設の敷地を利用し、その地形は地図などから確認できます。

飛行場は度々拡張され、最終的には南側の蛇砂川まで広がりました。


東近江市立八日市文芸会館前(青葉町)に設置されている「民間飛行場発祥地」碑


陸軍飛行第三聯隊跡碑(札の辻の日産の角です)


飛行第三聯隊正門跡碑(札の辻のローソンの角です)


冲原(おきはら)神社は、陸軍飛行場となった大正14年に衛戍神社として創祀、昭和2年に冲原神社に改名されました。地元の皆さんによって美しく整えられています。


冲原神社には、発掘されて見つかった飛行場の営門が移築されています。
軍建物は戦後、学校などに転用されましたが、老朽化により維持が難しく、その姿を消しています。


八風街道の北側へ1本入った道は、鉄道の敷地の痕跡と見られます。


八日市飛行場の周辺には、昭和19年頃、飛行機などを隠すための掩体壕が作られました。現在は、布引丘陵沿いに残るのみで、埋蔵文化財包蔵地としては「布引掩体群」と名称つけています。遊歩道沿いに、コンクリート造ドーム型掩体や木製ドームを支えたコンクリート基礎など、17基が残ります。戦後、陸軍からそのまま土地所有者へ返還され、個人では解体できずに残ったものです。

戦後の復興により、今では飛行場があったということはなかなか想像できません。戦争を知る方々が少なくなる中、いわゆる戦争遺跡は、その記憶を目の当たりにできる大きな役割を果たし、その重要性は益々高くなっていくと思います。

 八日市飛行場については、『八日市市史 第4巻 近現代』編をご参照ください



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